神に喜ばれるモノをつくるということ

昨晩、偶然にもつけたTV画面が、「ただただだ真っ暗」というものを写していて、一瞬放送事故かと思いましたが「生中継」と表示があることから、ただごとではない何かの中継がされている、、、ということまでは理解しました。
そこで引くに引けなくなり、画面を凝視していたのですが、要するにそれは奈良の春日大社の20年に一度行われる「神様の引っ越し」ということで(伊勢でいえば遷宮のようなもの)とにかく貴重な瞬間が生中継されるという前代未聞の事態だとわかりました。
カメラは幕屋の外側から。秘儀中の秘儀はもちろん中継現場のアナは声も出さないという特例で撮影が可能になった模様。
しかし、春日大社はなぜこれを今、中継させたのか、、、という疑問が大きくあるものの、儀式自体はやはり画面越しの神秘体験がわたしにももたらされるものでした。
(これに関してはいずれkaorissima.comで別な記事にするかも)
番組の中では、春日大社本殿の屋根、檜皮葺き修繕の様子や、神に奉納する品々を作る職人たちを映すコーナーもあり、これまで知らなかったのですが「瑠璃燈篭」というもの、
こちらも今回修繕され、それはそれは美しく、気が遠くなるような細かい仕事が想像されます。
その中で、ある職人が
「“神様は果たしてこれで喜んでくれるだろうか?”ということだけを考えて手を動かしています」
というようなことを仰っていて、グッときました。
もしかしたら日本のモノづくりの基礎は全部そこにあるのではないか。
その精神があるがゆえに、昭和の時代、作るものが車や電化製品となっても、細かなパーツひとつに至るまで、きちっと仕事されたものとして仕上げ、それゆえMADE IN JAPANは素晴らしい品質で世界に驚かれた。
もちろん、作り手のみんなが「神様を喜ばせる」なんて具体的な意識を持っていたわけではないでしょうが、そういったDNAとして受け継がれる精神性の基礎を見た気がして。
そもそも日本語の「モノ」とは本来マテリアルを指す言葉ではなく、モノとは霊魂、みたま、霊力、、、、そんな目に見えないもののことを言っていた。。。。
モノを作るということは、そんな見えないものを見える形にする、という仕事なんですよね。
・・・・わたしはもちろん匠の技などの5兆分の1ぐらいのスキルしかありませんけれども、 神を喜ばせるかどうかという問いは常に持っていたいものだなとしみじみ思いました。